『ラダック 懐かしい未来』

インド北部のラダック。
そこは「廃棄物も汚染もなく、犯罪は事実上存在せず、地域共同体は健全で結束力が強く、十代の少年が母親や祖母に優しく愛情深く接するのに決して気後れすることのないような社会」であった。ラダックほど季節によって生活が支配される居住地はなく、何世代も前に築かれた水路によって、雪解け水を畑に供給し、自給自足の農民として暮らしている。

ヘレナ・ノーバーグ・ホッジ(スウェーデン生まれで、言語人類学者として1975年にラダックに入った著者)によって書かれた本書『ラダック 懐かしい未来』は、現在先進国に暮らしてきた人にとって新鮮な視点を与えてくれます。その一端を少しご紹介します。

本書のプロローグに以下の文章がある。

「ラダックへ行く前、「進歩」に向かって進むことは避けがたいものであり、疑う余地のないものだと思っていた。そのため、公園の真ん中を突き抜ける新しい道路や、200年も前から建っていた古い教会の跡地に鉄とガラスの銀行が建ったり、小さな店に代わってスーパーマーケットができること、そして生活が日を追ってより厳しく、早くなっていくという事実を、私は仕方のないものとして受け入れてきた。だが、今は違う。」

日本で長く暮らしている我々にとって、貨幣経済が流入していない暮らしなどはおよそ予想などもつかない。しかし筆者はラダックで、まさに西洋の影響を受けていないラダックの伝統的社会というものを体験したのだ。

数十年ぶりにラダックを訪れた外国の人間として、私が初めて到着したとき、ラダックはまだ基本的に西洋の影響を受けていなかった。」

伝統的な自給自足の経済では、お金は主に宝石類、金、銀の購入のために遣われ、比較的小さな役割を果たしているにすぎなかった。生活に欠かせない食料、衣類、住居などの必需品はお金を払わなくてとも手に入れられた。労働力が必要なら、網の目をなす人間関係の一部分として無償で提供された。

「伝統的な暮らしでは、村人は生活に必要なものを貨幣を使うことなく得てきた。標高3600メートルの土地で大麦を栽培し、さらに標高の高いところでヤクやその他の家畜を飼育する技術を発達させてきた。人々はごく身の回りにある材料を使い、自分たちで家を建てる方法を知っていた。唯一、外部から必要としていたのはおもに塩だけで、それは交易で手に入れていた。」

しかし、すぐに西洋の影響はラダックに流入するようになるのを筆者は目の当たりにする。

「気が付けば突然、世界的な貨幣経済の一部として、生活必需品に至るまで遠方からの力が支配するシステムにラダックの人々は依存していた。ラダックの人の存在さえ知らない人たちの下す決定が、彼らに影響を及ぼすようになっている。もしドルが変動すると、やがてインド・ルピーに影響する。これは、生きていくためにお金が必要になったラダックの人々が、国際金融市場のエリートの支配下に置かれているということである。土地に頼っていたころは、自分たち自身が支配者であった。
「まったくひどいもんだ」とラダックの友人が私に言ったことがある。
「みんな貪欲になった。昔はお金は重要じゃなかったが、今じゃ考えることと言ったらお金ばかりだ。」

ラダックで行われた観光開発は、ラダックの人々や文化に大きな影響を与えた。

「何の前触れもなく、別世界から来た人たちがラダックのちに降り立ち、毎日大勢の人が百ドル、もしラダックの貨幣価値であれば5万ドルに相当する大金を散財する。」

「ある日目を覚ますと、突然、自分の町に異星人が侵略してきた光景を想像していただきたい。奇妙な言葉を話し、姿かたちはさらに変わったこの宇宙人たちは、尋常ではない生活を送っている。彼らはどうやら労働というものを知らず、余暇を楽しむだけの様子で、その上、特殊な力と尽きることのない富を手にしている。・・・彼らのこの様子を見て自分の子供がどのように反応するか、またどれほど見せられるかを考えていただきたい。子供にこの異星人を深追いするのをやめさせ、家族とともに家にとどまるほうが良い暮らしだと納得させるのが、どれほど難しいことか。十代の感じやすい若者が、アイデンティティーを模索する中で足元をすくわれるのを、どうすれば防ぐことができるだろうか。

西洋の文化が突然押し寄せてきた影響として、ラダックの人々、特に若者たちが劣等感を持つようになった。彼らは自分たちの文化を全面的に拒否すると同時に、新しい文化を熱心に取り込もうとしている。・・・現代の象徴は、ラダックでの暴力の増加も招いている。今では少年たちは、映画の中で格好良く映し出される暴力シーンに触れる。・・・もちろん、皆がみんな暴力的になるわけではないが、やはり以前よりも怒りっぽく不安定になっている。男性が、青年でさえも喜んで赤ん坊をあやし、祖母を敬愛し、いたわる寛容な文化が変わっていく・・・」

「開発は観光だけにとどまらず、西洋の映画やインド映画、最近ではテレビをもたらした。これらが一緒になり、贅沢、力について圧倒的なイメージを見る者に与える。・・・映画ではお金持ち、美人、勇者が波乱と魅惑にあふれた人生を送っている。ラダックの若者にすれば、映画が映しだす光景は抗しがたい魅力である。それに引き換え、自分たちの生活は原始的で、愚かで、いかにも効率が悪く見えてしまう。・・・辺境地域に住む世界中の何百という若者にとって、現代の西洋文化は自分たちの文化よりもはるかに優れているように見える。彼らは現代の世界を外側からみているため、その物質的な面、西洋文化の優れている側面しか見えていないのだから無理もない。ストレスや孤独、老いへの恐れなどの社会的あるいは心理的な視点からはまだ見ることができないし、環境破壊、インフレ、失業の問題などもまた見えていない。

変わりゆく人々や文化を目の当たりにし、筆者は以下のように語る。

「ラダックでの経験を通じて、私が以前、破壊的な変化に直面したとき無抵抗だったのは、少なくとも部分的には、人間の本性によるものと文化とを混合していたためだということを自覚するようになった。マイナスの動きの多くは、私たちが直面している現状は人間のコントロールを超えた自然の進化の力というより、私たち産業社会文化の結果なのだということを認識していなかった。深く考えることもせず、人間は基本的に自己中心的で、生き残るために競争し、戦うものとみなし、より共同的な社会というのはユートピア的な夢でしかないと思っていた

「この計画的に実行される変化は、技術進歩と経済成長を通じて生活水準を引き上げることになったが、生活をよくした部分よりは、悪くしたことのほうが多いように思える。欲望を作り出すことが、この大きな変化の重要な部分であることに気付いた。

「網目状に入り組んだ道路や小径や交易路、そして広大に発達した灌漑水路網は、千年以上も維持されてきた。これらの生きて機能している文化や経済システムなどの表徴は、まるで存在していないような扱いを受けてきた。ラダックは西洋の手本であるアスファルトとコンクリートと鉄によって、作り変えられているのである。」

「開発は、貨幣経済の導入が常に改善をもたらすという前提で進められる。お金は多ければ多いほど、よいことになっている。これは、主流となっている経済機構に依存しているものにとっては真実かもしれないが、地元の資源との直接的なかかわりに基づく非貨幣経済で自給的経済の暮らしから利益を得ている何百万という人々にとっては、決して真実とはいえない。自分たちの食物、衣服、住まいを自分で作る能力のある人々にとってみれば、自らの文化の自立性を放棄し、不安定な貨幣収入に依存することは、生活の質の大幅な低下となる。

「従来の西洋型の開発によって農村の人々は土地から切り離され、都市のスラムに吸い寄せられて貧困がつくりだされる。所得を確保するために、周縁から中心へ、世界の非工業地域から工業地域へ、農村から都市へ、そして貧困層から富裕層へと資源を吸い上げる経済制度に、人々はますます取り込まれていく。」

私たちがいう「貧困」は誰がつくりだしたのでしょうか?
そして「貧困」をなくすためにさらなる「開発」を行おうとしているのは誰なのでしょうか?

『ラダック 懐かしい未来』 ヘレナ・ノーバーグ・ホッジ 『懐かしい未来』翻訳委員会・訳 山と渓谷社 2003

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「正しい」ということ。「客観的」でないということ。研究はもっと楽しいということ。

我々が、「正しい」というときには大きく分けて三つの意味からそういうらしい。

一つ目は、論理的整合性があるとき。
例えば、「『x=y+zとしたときに、x=y+kならば、k=zである』ということは正しい」というものである。

二つ目は、経験的妥当性があるとき。
例えば、「『この教室の中に学生が5人いる』ということは正しい」、というものである。

我々は日常的に、これら二つの判断基準を無意識に使っているらしい。
「ツジツマがあう」とか、「経験的にピンとくる」とかいった言い方がそれであり、
演繹法や帰納法といった方法で承認される。

しかし世の中にはこれら二つの判断基準だけでは、
我々が「正しい」という時の説明をしきれないようだ。

三つ目の「正しい」があるようだ。
例えば、「福沢諭吉がいった『天は人の上に人を創らず、人の下に人を創らずといえり』という考えは正しい」というとき、これは論理的整合性や経験的妥当性から判断できない。

これは価値観を反映したものの見方の表明であり、価値観について納得できるかどうかといったことがポイントとなる。人それぞれによって異なる、物事への 「意味づけ」の問題だ。
つまり、演繹や帰納といった方法ではなく、意味解釈法といった方法で検討される。

そして重要なことは、こういったものには、

「客観的な唯一の正解というものはあり得ない」ということ。

そういった分野に対して学問の在り方はとても難しいと思う。

学問には、研究自体が「既存の学問領域の深堀り」なのか、「未成熟で未開拓なフロンティアへの挑戦」なのか、によって研究の方法が異なるらしい。

制度化された学問ではなく、「未成熟で未開拓なフロンティアへの挑戦」としての学問を選ぶとき、
そしてその学問に対して「意味づけ」が必要となるとき、「客観性」は全然見えなくなる。

しかし、研究の手法として、アクションリサーチというものがある。

アクションリサーチとは、

研究者自身が実際に行為を興し、それを通じて環境と相互にかかわっていく。その相互作用のプロセス自体を研究対象とするものだ。重要なのは、一方的に対象を「客観的に」調査するのではなく、対象と研究者がインタラクティブに関わりながら、プロジェクトを進めていき、双方がともに変化する過程自体を重要視する点である。

これを知ったとき、なんかホッとしました。
「客観的であること」が至上命題であるように思っていた研究が、そうでなくてよいだなんて。
すべての物事に対して客観性を保てるほど、全然大人じゃなかったので、すぐに主観的になってしまう性格なので、研究というものはある種、自分に対する戒めのようにとらえていたのですが、

これからは、楽しんで「研究」が行えそうです。

アクションリサーチでは、研究主体が研究対象にかかわり、その対象を変化させるとともに、自分自身も変化する(学習する)ことを重要視するらしい。

学習すること自体が自己目的化したらダメだと思いますが、
「研究」という敷居を今まで高くとらえ、お堅いイメージを抱いていた今までと違って、
「研究」はもっとアクティブなものだというイメージがつきました。

これならできるかも。

参考:『研究計画書の考え方』 妹尾堅一郎著 ダイヤモンド社 1999

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いかにして子供になるか? 「文化の翻訳」への挑戦

世界中の課題を解決したい、なんて思った時に、やはり自分が生きてきた文化・環境と「むこう」の文化・環境とのずれをいかにフラットにするか、というところを考える。

だって僕が「むこう」にとって、「よそ者」であることに変わりないから。
そこを乗り越えたい。そこを何とかしたい。

僕は大学で数少ない面白いと思った授業があって、それが人類学だ。

「文化を翻訳する」ということ、それがカギになると思う。

どうやって「文化の翻訳」を行うか?行えるのか?

その難しさを言い表すとこんな感じである。

『フィールドワークというのは、何よりもまず、自分のなじんできた文化とは異質の文化と接触し、それに伴って生じるストレスと当惑の体験、すなわちカルチャーショックを通して異文化を学んでいく作業です。
文化とは「知識・信仰・法律・風習・その他社会のメンバーとしての人間によって獲得された、あらゆる能力や習慣を含む複合体の全体」のことです。
私たちは自分が生まれた社会の中で成長し、社会の一人前のメンバーになっていく中で、少しずつこれらの事柄を学習していく。・・・(中略)・・・
こうしてみると、フィールドワークとは、いうなれば文化的な子供時代の再現であると言えます。もう一度子供にかえって、一からやり直すのです。
しかし、現地の子供が文化を学んでいくプロセスとフィールドワーカーによる文化の学習との間には、一つの大きな違いがあります。子供の場合、ほとんど白紙の状態から文化の学習が始まるのに対して、フィールドワーカーはすでに身に着けている自分の社会の文化を前提として調査地の文化を学んでいくのです。』(出典:『フィールドワーク増補版 書を持って街を出よう』 佐藤郁也著 新曜社 2008)

自分の「埋没」を意識していかに自分から「距離」をとるか。
すっごい難しいけど、やってみる。

この挑戦なくしては、僕が生まれた存在価値はない、とまで言い切ってみる。

自分でありながら、自分でない。
生きながら、生きない。

意味が分からない。 けど、やる。

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左脳のシナプスがとめどない。さて、右脳よどうする。

モチベーション3.0という本を読んで、
より創造的なことをするためには、金銭というのは人間を動かすうえでのインセンティブとはなりえないということを実証的に理解する。
左脳的な活動は、金銭的なインセンティブを与えることで成果を発揮できるけど、
右脳的な活動で成果を求めるために金銭をインセンティブとして与えることは逆効果を生む。

僕は今まで左脳をものすごい鍛えてきた。論理的思考の訓練。

論理的矛盾があるとむずむかゆい。社会学部だけど、数学が好きだった。
論理的思考をもれなく完遂すれば、答えは必ず導ける数学。
あの、解を導き出した時のスマートさが好きだった。
まるで、この世の誰もが疑いのない真理を打ち出したような気持ちよさがあった。
「どうだ!文句があるなら、矛盾を指摘して見せよ!」

昔から極度の負けず嫌い。負けないためには理論武装したかった。誰もが疑いのないようなこの世の真理を身にまといたかった。
だけど、僕が自分の周りにペタペタはったこの世の「真理」は、僕を救ってくれなかった。
「何か」を包み隠すための、防弾チョッキを着ても、本当に導き出したい理想にはたどりつけない。
重苦しい理論武装をしても、攻めなければ、掴みとれない。達成できない。

「あ~そろそろ、肩がこっちゃうよ。やっぱ鉄よりアルミだよね。」

もう既存の学問の枠組みにとらわれる気はないし、
それじゃ、何にも解決しないことを切に感じる。

世の中の証明された学問だけでは、説明しきれない現象がこの世にあって、
その中の負の現象を解決したい。
全人類のナレッジを共有し、創造的破壊を起こす。

創造、Cereatibity

そんなことをするために、最近右脳さんに、こう訴える。
「右脳さん、右脳さん、お待たせしました。そろそろ目覚めのお時間ですよ。
コーヒーを入れておきました。お砂糖はたっぷり入ってます。
世界を、いや僕を、救ってください。お願いします。ちなみにお金は払えません。でも、僕の心がそう命令してます。さあ、起きてください。」

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「BOPビジネス」の評価、人間への影響。”capability”と”relationship”

「BOPビジネス」がこれからどのように語られていくのか、少々気になって、
でも、自分としては常に本質はついていきたいと真に思うから、世界で語られていることも把握したい。

ということで、ミシガン大学の教授Ted Londonの論文
“Making Better Investments at the Base of the Pyramid”を読みました。

どちらかというと、「BOPビジネス」を見るときは、
そこで使われているプロダクトやサービスが、実際どれくらいの値段なのか、とか
どれくらい現地で利用されているのか、とか、
事業としてどれくらい儲かっているか(ビジネスとして成り立っているのか)、とか、
現地の人達がどれくらいの収益を得ているのか、とか、
やや数字として、わかりやすいことを取り出して、評価しようとするけれども、

Ted Londonの論文は、(もちろん現地の人達がどれくらい利益を得ているかということにも視点を置いているけれども、それに加えて)
事業自体が、現地の”capability”と”relationship”にどのような影響を与えているのか見なければならないという。
capabilityとは現地のスキル、健康、個人やコミュニティの尊厳といったものや、自己の尊厳や向上心といったものを指し、
事業がこれらにどのような影響を与えているかを測ることが重要だという。
さらに、relationshipとは、 現地の天然資源との関係性やコミュニティとの関係性を指し、
事業がどのような影響を与えているかを測ることで、潜在的な問題を未然に発見し、その改善を図ることができるという。

著者は、VisionSpringの例を挙げて、これらの評価軸を持つことの重要性を主張する。
販売者として、現地起業家であった女性を雇用していたが、それが伝統的な社会関係にいくらかの影響を与えていたのだという。
つまり今まで家や村の中で活躍してこなかった彼女たちが活躍することで、男性たち(女性の配偶者たちなど)がジェラシーを抱いたり、よく思わなかったりしているということが調査によってわかった。

そこでVisionSpringは女性の配偶者も雇うことで、事業が将来的に引き起こしていたかもしれない問題を未然に防止し、事業の改善を行うことができた。

現在、日本では、「BOPビジネス」という概念が、
どちらかというと企業の視点から、「ネクストボリュームゾーンだ。」
なんて語られたりして、
そしてそれに対して、NGOさんが「我々は懐疑的です。」
なんて批判したりして、
こりゃまた、どちらの「土俵」で議論をされているのですか?なんて思ったりもしますが、
この論文はそんな議論を良き方向へ持って行ってくれるための視点をくれるものだと思います。

「BOP」は人間。
(僕はこの言葉が嫌で使いたくないですが、人に何かを伝えるためには、一般的に理解されている表象の仕方を用いないと伝わらないので、やむなしとしています。)

他人の人生左右するような事業を評価するときに、事業がどれくらいの利益をあげているとか、プロダクトがいくらなのかだけでは、足りないですね。(もちろんビジネスですから既存の評価もとても重要だと思います。)

短いですし、興味深いので、ぜひお読みになってはいかがでしょうか?
こちらにてhttp://hbr.org/2009/05/making-better-investments-at-the-base-of-the-pyramid/es
5ドルでPDFが買えます!

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ユートピアの希求。人間の争い。そして僕の真ん中。

ああでもない、こうでもない、ああすればよい、こうすればよい、いややっぱり、・・・・
あれを論証するには、この証明が必要で、その証明をするには、この前提を疑わなければならない・・・

論理的かつ批判的思考への挑戦にいつも打ちひしがれてしまう僕。
理想を追い求めては、頓挫し、という無限ループをさまよう自分は、結局何がしたいのか。

持続可能な社会への挑戦?
「持続可能」とは何か?環境・社会・経済的側面から判断し、うんぬん、、、

しかし、現在の全世界の人類のうちどれくらいの人々が、「持続可能な社会」を求めているのだろう?現状の社会でなぜ満足できないのか?
「鈴木君、その前提を疑わなくては駄目だよ。」っていう声が聞こえてくる・・・

ふ~。もっと力を抜いて、真に革命的なことを、イノベーティブに起こしていきたいって思ったりするけど、論文を書くためには、そうはいかない。
先行研究の中に自分の研究を位置づけて、その中で自分のオリジナリティをだし、意義を見出す。ほほ~先生、バスケがしたいです。

みんなそれぞれ、人生を生きていくうえでの、いくつかの価値観を持っていて、
みんなそれぞれの、価値観の集合体が、1人の人生観を形成しているとして、
人間1人の人生観が、10個の価値観から形成されているとして、
68億×10=680億通りの価値観が、この世にはございます。

それはそれは、軋轢ばかりが生まれるでしょう。

人間と人間のせめぎ合い、微妙なズレから大きなズレまで、世界中にはたくさんのズレがあって、たくさんの人が争っている。そんな争いのうち、生産的な争いとは何であろうか?

資源をめぐる争い、領土をめぐる争い、権力をめぐる争い、人種・宗教間の争い、愛をめぐる争い

争いから、調和を生み出すことって、なんて素晴らしいんだろうって個人的に思う。
だって、人間同士がお互いの価値観、ズレを許容し、良き関係性を築き上げるのって、そうそうできることじゃない。最悪、そして現代では簡単に、人を殺しちゃうのだから。
僕は調和が好きだ。みんな楽しく心の底から笑っていれば、僕は嬉しい。そんな場に入れたとき、幸せを感じる。

個人的にビジネスって争いだと思う。
逆に言えば、全く見ず知らずの人間同士が、お互いのズレを許容し、良き関係性を築くためのチャンスでもある。

アフリカの少年、と僕が、人間と人間の生のせめぎあいの中から生み出し、許容された関係性は、
それはもう、革命的でイノベーティブなものでしょ。

「ウガンダの少年と俺は調和してるんだぜ!あいつは、少々自分勝手だけど、俺のことも気遣ってくれるんだ!あいつとはマブダチだぜ!」

何にも囚われずに、自分の真ん中であること。そうありたい。

2010年、6月某日,一人の革命家は僕にこう訴えかけてきた。

「重要なことは、あなたの心に従うことよ。」

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